不登校(条件付きの対人関係)
天理教諏訪野分教会の上瀧会長さんの講演録です。
4月、新年度になって、何か新しいことが始まって新しい気持ちで生活をしている方もあるかも知れません。
しかし、新しいことに取り組むには、不安や緊張が伴うものです。私たち大人がそのような不安や緊張を感じるよう、子どもたちの中にも新しい学校・学級、人間関係などに不安や緊張を感じている子どもたちが沢山います。
不登校という言葉をみなさんもよく耳にすることと思います。文部科学省は、「不登校児童生徒」とは 「何らかの 心理的、情緒的、身体的あるいは社会的要因・背景により、 登校しないあるいはしたくともできない状況にあるために年間 30日以上欠席した者のうち、病気や経済的な理由による者を 除いたもの」と定義しています。2024年度の統計では、34万6千人の児童生徒が不登校となっているのだそうです。子ども全体の4%弱が学校に行けずにいいます。
もしかしたら、この子どもたちは、どこかに学校に行きたい気持ちがあるのだけれど、不安や緊張に押しつぶされて、行けなくなっているのかもしれません。
はじめて出会った人たちの中で、不安や緊張でうまく行動できなくなってしまう。孤立して、孤独な感じがしていたたまれなくなってしまっているのかもしれません。
だから、安全、安心を感じることができれば、もしかすると子どもたちは今よりも学校というものに行きやすくなることがあるのかもしれないなと思います。
では学校で安心・安全を感じれない子どもたちが、学校を欠席し家にいるときに、安心、安全な気持ちでいられるかというと、それもそうではないように思います。なぜなら、子どもが学校に行かないとなると、親は、必死にあの手この手で子どもを学校に行かせようとするからです。子どものために、いろいろなところに相談に行き、いろいろなことを試しだす。我が子だからどうにかしなきゃいけないと思うし、もっと言えば我が子だからどうにでもできる(自分の思い通りにできる)と思ってしまいます。でも本当は子どもは親とは別の人間・人格なので思い通りに動かすことはできない。
でもこの違いを認められず、「どうにか学校に行かせたい」「学校にさえ行ってくれさえすれば」と、ますます必死になる。でも、この必死さは子どもにとっては、すごく重たいことなのかもしれません。「学校に行けず、親に心配をかける僕はダメなんだ」と自己嫌悪になり、ますます落ち込んだりイライラしたりしてしまうことも。そして時には親の想い(期待)を考えて、「明日は行くよ」と言い出す。でも翌朝、やっぱりいけない… こうなると「昨日は行くと言ったくせに!」と親がイライラしたり、落ち込んだりしてしまう。その親の様子を見て子どもは「登校しない自分のせいで親が怒っている・落ち込んでいる」と感じ「やはり自分はダメな人間なんだ」とますます深みにはまってしまい、家族揃ってますます苦しくなり、親子で顔を合わせて会話することすらも辛くなってしまいます。
こんな負の連鎖にならないためにも、不登校のときこそ、まずは家の中だけでも、安心・安全な環境にできないかなと思うことがよくあります。
我が子は、学校に行けてようが、行けてなかろうが、我が子に変わりはないわけです。我が子として認めるために条件はいらない。条件付きの人間関係では苦しくて、いつか歪みがでてきてしまうのかもしれません。
不登校になったら、初めは冷静になれず右往左往するかもしれませんが、どこかで「学校に行けない日もある!なら何しようか?」と見方を変えてみるのもありかもしれません。
私自身が不登校になった時(当時は「登校拒否」)、初めは学校に行かない私をどうにかしようと右往左往していた親が、ある時、「学校に行かなくても良い。でも今のまま体も動かさず引き籠もっていたら、あんたの身体が心配!」と言い出し、家のダイニングテーブルを卓球台に見立てて一緒に卓球をしてくれたことがありました。そして、このたかだか卓球が私にとっては大きな転換点になりました。その時は本当にただ親子で卓球をしただけのことです。でも学校に行ってなくても母親が一緒に卓球をして笑って過ごせた体験。私にとって、この体験が意味していたのは、「学校に行かなくても、家に居ていいんだ」=「無条件に受け入れてもらえた」ということでした。まさに心の中に安心・安全という気持ちが芽生えた瞬間だったように思います。
このあとすぐに私は登校できるようになったわけではありませんでした。でも、この時を境に、自分を少しだけ信じれるようになったように思います。私は元来人間関係があまり得意ではありませんでしたので、不登校後も何かと悩み辛い想いをすることが多々ありました。でも、その都度人を頼りながらではありましたが、どうにかここまで生きてこれました。
まずは無条件に存在を認める。難しいことをするのではなく、子どもが登校してもしなくても、一緒に笑って過ごすこと。このことが子どもたちのこれからの人生の糧になるのかもしれないと思います。
ここまで不登校のお話をしてきましたが、この人間関係のお話は、大人にでも、誰にでも当てはまるように思います。人間関係うまくいかないとき、トラブルが起きているとき、早く変えたい、相手を変えたい、わかってもらえるはずだと思ってしまう。人間関係に条件をつけてしまうことで、過度の期待をしてしまうことで、対人関係を更に苦しいものにしてしまうことがあります。
どんなにやっても通じないときは通じない。相手を変えることは難しいことなのかもしれません。
自分の心を丸くニュートラルにして、待つことができた時に、神様が働いて、なにか違う捉え方、見え方ができるようになって、私たちは周りに感謝し幸せを感じることができるのかもしれません。